津軽三味線のルーツをイラストにしてみました。

ルーツを知ったうえで、津軽三味線の

演奏を聴いてみると、いつもとは

違う味わいを感じることが出来ます。

 

ボランティアでお話をする時用に

津軽三味線の歴史にまつわる話を

わかりやすい形で、私なりに

絵にしてお話することにしています。

(その一部のご紹介です。)

津軽三味線の誕生について

 

 もともとは青森地方で

 目の見えない「ボサマ」

 と呼ばれた方達が、生活のために
 演奏していた時代がありました。
 家々を回って食べ物などを

 恵んでいただくために
 家の入り口の前で

 三味線の演奏をしました。

 

 門付け(かどづけ)」と

 呼ばれていました。扉を開けて

 食べ物を恵んでもらうために

 本来の三味線よりもどんどん

 目立つ演奏、心をつかむような

 派手な演奏になっていった 

 そうです。この頃は「細棹」

 と呼ばれる持ち運びしやすい

 三味線だったようです。

 

 安政4年7月7日に

 秋元仁太郎という子供が

 生まれます。8歳の時に

 天然痘で失明したものの

 盲目の女三味線弾き(瞽女だったと

 いう説があります)から

 三味線を習います。

 10歳になった少年は、三味線で

 瞽女さえ驚くほどの三味線の腕を

 発揮するようになります。

「驚くほどの音色だった」そうです。

 楽譜や録音、録画機材もない時代に

 自分の耳と指で音を学びとった

 その感覚に頭が下がります。

 この少年が、津軽三味線の開祖

「仁太坊(にたぼう)」です。

 様々な芸を身につける貪欲さや

 負けず嫌いな精神を持っていて

 細かった三味線を太い三味線に変え

 さらに門付けの演奏ではなく

「芸」としての津軽三味線を

 確立していきました。

「門付け」から「芸」へ進化させた

 だけでなく「生きるための三味線」

 から「聴かせる三味線」へ芸を

 発展させました。その志と真摯さは

 尊敬すべきものがあります。

 奥さんの持つ棒を頼りに

 次の演奏場に向かう姿を銅像として

 見たことがあるのですが

 心を奪われました。

 

 仁太坊が生み出した津軽三味線は

 その後、さまざまな変遷を経て

 現代の津軽三味線へと発展して

 いきます。「ボサマ」「瞽女」

 「門付け」など現代ではあまり

 聞くことがない言葉に

 津軽三味線誕生の歴史を感じます。

今後も津軽三味線の歴史や変遷を

コツコツとイラストに

していきたいと思います。

ボランティアの時のお話用に

始めたつもりでしたが

自分が一番勉強になります(汗)

これからも地道に頑張って

増やしていきたいと思います。

邦風

 ■参考文献

 「津軽三味線まんだら」

 2011年5月1日 発行 

 松本宏泰著 

 有限会社 邦楽ジャーナル

「三味線屋の宇宙論」

 2006年5月25日 発行 

 山田研悦著 

   株式会社ルネッサンスブックス 

「三味線をはじめよう」2004年12月10日発行 津川信子著

成美堂出版株式会社「まるごと三味線の本」 2009年12月発行 

田中悠美子 編著,野川美穂子 編著, 配川美加 編著 青弓社 

津軽三味線会館(金木町)の豊富な津軽三味線の

歴史資料も参考にしました。http://www.kanagi-gc.net/syami/